スタンレー電気、誕生
1920(大正9)年12月、北野隆春は自動車電球を主体とした特殊電球を扱う「北野商会」を創業した。 資本金なし、従業員なし、得意先なしと、文字どおり"ゼロ"からのスタートであった。その後、輸出に活路を見出して基盤を固めるものの、関東大震災ですべてを失う。しかし、そこから再起し、やがて自前で電球製造を手がける製造業へと脱皮するとともに、社名を「スタンレー電気株式会社」とした。電球に加えて抵抗器やセレン整流体なども開発し、事業はさらに拡大していった。地震や戦争など数々の困難を乗り越え、現在のスタンレー電気の礎を築き上げた時代であった。
第1章のPDFをダウンロードするCHRONOLOGY
北野隆春が「北野商会」を創業、自動車電球を主とする特殊電球の製造販売を開始
創業、北野商会ゼ口からの始まり
「おれは早く日本一になりたい。たとえ、焼き芋屋でもうどん屋でもいい。しかしこれからは電気の時代だ。電気関係であまり資本のかからない製品をやろう」
北野隆春がそう決意してスタンレー電気の前身である北野商会を立ち上げたのは1920(大正9)年12月29日。東京市芝区(現・東京都港区芝)に住居兼店舗を借り、自動車電球を中心とした特殊電球を扱う個人商店を興した。そこにあったのは使い古された机と椅子、そしてなけなしの貯金280円のみ。資本金なし、従業員なし、得意先なし、何もない、まさにゼロからのスタートだった。北野隆春30歳の時である。
米国J.H.メッサベー商会から自動車電球を大量発注
関東大震災により北野商会全焼
商号を「東京北野商会」と改め再出発
関東大震災からの復興、東京北野商会に商号変更
1923(大正12)年9月の関東大震災で創業2年8カ月にして、今までの努力はことごとく灰燼に帰してしまった。しかし隆春は、同年12月に事務所・工場を兼ねた建物を建設、再発足の意味を込めて、「東京北野商会」に商号を改め復興を遂げた。震災後にもかかわらず、東京北野商会は好調に売上を伸ばし、自動車電球では国内販売・輸出ともに業界トップに立つ。
北野隆春社長、第1回欧米視察旅行に出発
パーマネント・コンタクト仕様の特殊電球を発売
星形の装飾用電気「クリスタルスター」を発売
東京市芝区田村町5丁目6番地に3階建ての事務所完成
目黒工場を開設
定款を制定
「スタンレー電気株式会社」を設立(資本金50万円)
北野隆春が取締役社長に就任
豆電球応用小型懐中電灯「ベビー・ライト」を発売
スタンレー電気の誕生
当時、当社は「商会」であり、製造部門を持っていなかったが、1932(昭和7)年5月、現在の本社所在地にあたる東京市目黒区に目黒工場を建設した。翌1933(昭和8)年5月5日、当社は有名なイギリスの探検家ヘンリー・モルトン・スタンレーの名前にあやかって命名していた電球の商標「スタンレー」との一致を図って社名を「スタンレー電気株式会社」へと変更。本格的な製造業としてのスタートを切ったのであった。
当社は電球を製造する傍ら、1935(昭和10)年にホーロー引き抵抗器の製造を始める。この製品は、当社が電気関係分野へと発展していく重要なエポックとなる製品となり、この他にも1940(昭和15)年にはセレン整流体の製造を開始し、名実ともに電気メーカーとしての道を歩み始めることになる。
ところが、1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が勃発。当社は、1945(昭和20)年4月15日の夜の東京大空襲により、中目黒本社、工場、倉庫に至るまでを焼失した。関東大震災に次ぐ2度目の大災害であった。
初めての地方事業所として大阪支店を開設(出張所から昇格)
ホーロー引き抵抗器の製造を開始
豆電球応用製品「ピストル・ライト」などを発売
北野隆春社長、第2回欧米視察旅行に出発
豆電球応用製品「コンパクト・ライト」を発売
豆電球応用製品「カメラ・ライト」を景品付き大売出し
セレン整流板の研究および製造を開始
航空機用電球を発売
セレン整流体の製造を開始
資本金を100万円に増資
資本金を200万円に増資
等々力工場を開設
空襲により本社・目黒工場を焼失
終戦により「北野電気工業株式会社」一応の解散
北野隆春が「北野商会」を創業、自動車電球を主とする特殊電球の製造販売を開始
創業、北野商会ゼ口からの始まり
「おれは早く日本一になりたい。たとえ、焼き芋屋でもうどん屋でもいい。しかしこれからは電気の時代だ。電気関係であまり資本のかからない製品をやろう」
北野隆春がそう決意してスタンレー電気の前身である北野商会を立ち上げたのは1920(大正9)年12月29日。東京市芝区(現・東京都港区芝)に住居兼店舗を借り、自動車電球を中心とした特殊電球を扱う個人商店を興した。そこにあったのは使い古された机と椅子、そしてなけなしの貯金280円のみ。資本金なし、従業員なし、得意先なし、何もない、まさにゼロからのスタートだった。北野隆春30歳の時である。
商標を「スタンレー」と決める
最初の従業員2名を採用
米国J.H.メッサベー商会から自動車電球を大量発注
関東大震災により北野商会全焼
商号を「東京北野商会」と改め再出発
関東大震災からの復興、東京北野商会に商号変更
1923(大正12)年9月の関東大震災で創業2年8カ月にして、今までの努力はことごとく灰燼に帰してしまった。しかし隆春は、同年12月に事務所・工場を兼ねた建物を建設、再発足の意味を込めて、「東京北野商会」に商号を改め復興を遂げた。震災後にもかかわらず、東京北野商会は好調に売上を伸ばし、自動車電球では国内販売・輸出ともに業界トップに立つ。
東京北野商会前にて
北野隆春社長、第1回欧米視察旅行に出発
パーマネント・コンタクト仕様の特殊電球を発売
星形の装飾用電気「クリスタルスター」を発売
東京市芝区田村町5丁目6番地に3階建ての事務所完成
目黒工場を開設
定款を制定
「スタンレー電気株式会社」を設立(資本金50万円)
スタンレー電気の誕生
当時、当社は「商会」であり、製造部門を持っていなかったが、1932(昭和7)年5月、現在の本社所在地にあたる東京市目黒区に目黒工場を建設した。翌1933(昭和8)年5月5日、当社は有名なイギリスの探検家ヘンリー・モルトン・スタンレーの名前にあやかって命名していた電球の商標「スタンレー」との一致を図って社名を「スタンレー電気株式会社」へと変更。本格的な製造業としてのスタートを切ったのであった。
当社は電球を製造する傍ら、1935(昭和10)年にホーロー引き抵抗器の製造を始める。この製品は、当社が電気関係分野へと発展していく重要なエポックとなる製品となり、この他にも1940(昭和15)年にはセレン整流体の製造を開始し、名実ともに電気メーカーとしての道を歩み始めることになる。
ところが、1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が勃発。当社は、1945(昭和20)年4月15日の夜の東京大空襲により、中目黒本社、工場、倉庫に至るまでを焼失した。関東大震災に次ぐ2度目の大災害であった。
株式会社に改組した目黒工場
北野隆春が取締役社長に就任
豆電球応用小型懐中電灯「ベビー・ライト」を発売
初めての地方事業所として大阪支店を開設(出張所から昇格)
ホーロー引き抵抗器の製造を開始
豆電球応用製品「ピストル・ライト」などを発売
北野隆春社長、第2回欧米視察旅行に出発
豆電球応用製品「コンパクト・ライト」を発売
豆電球応用製品「カメラ・ライト」を景品付き大売出し
本社・営業所を工場所在地(中目黒)に移転
セレン整流板の研究および製造を開始
航空機用電球を発売
セレン整流体の製造を開始
時局の要請により社名を「北野電気工業株式会社」と改称
資本金を100万円に増資
資本金を200万円に増資
等々力工場を開設
空襲により本社・目黒工場を焼失
終戦により「北野電気工業株式会社」一応の解散